指導者 紹介

眞鍋 嶽山 ( まなべ がくざん )    黄淳樑派詠春拳インストラクター

 1961年香川県三豊郡(現在は三豊市)詫間町出身。幼少の頃より武術に興味を示し、小学校入学と同時に少林寺拳法に入門する。隣町の多度津町に少林寺拳法の本部道場があったため一応創始者宗道臣氏直伝ではあるが本人は武歴では一番そのことを恥じている。

 中学時代にブルース・リー映画が流行り、中国武術に興味が沸いたものの、太極拳など武当派の隆盛には違和感を覚える。当時は映画鑑賞が趣味であったため、数多くの香港製カンフー映画を観る機会に恵まれる。また、その影響でブルース・リー以後の香港映画にも熱中していく事となる。ジミー・ウォング、ブルース・リャン、倉田保昭、ショーブラザーズによる真面目な少林寺映画、または酔拳に代表されるドタバタ功夫喜劇、80年代になるとカンフー映画から五福星、ポリスストーリーなどのアクション映画、中国との合作による少林寺、阿羅漢などの時代劇、90年代は洪拳の一代宗師、黄飛鴻映画の台頭など香港映画の様々なブームと時間を共有してきた。

1975年家族で大阪府豊中市に転居。1977年大阪学院大学高等学校に進学と同時に日本拳法部へ入部し3年間研鑽に励んだ。研鑽の甲斐あってか、1979年(昭和54年)開催の「全日本拳法選手権」高校の部団体戦で決勝進出を果たし、見事優勝を修める。日本拳法は初段の腕前である。

高校卒業後は大谷大学文学部に進学し、縁あって佛教について勉学する機会を得る。特に中國佛教と眞言密教について研究を行う。

大谷大学文学部卒業後は柔道整復師目指して働きながら専門学校に通学する生活を送る。1985年より柔道整復師業の一環という観点から柔道を始める。以後1996年までの11年間柔道に専念し、年1回以上は柔道の大会にも出場を果たしていた。その間にも中国拳法への憧れは止まず、いつかは中国拳法を修行する事を決意する。生来、身体に柔軟性がない事から香港カンフー・短橋狭馬の詠春拳に着目してを入門を目指す。

 2001年8月に縁あって日本の某詠春拳団体の関西支部へ入門を果たす。決して正式とは言えないものの、詠春拳の修行を開始する。

 2005年3月に一念発起して単身渡港を果たし、香港の黄淳樑師公の直弟子である李恆昌師傳へアポなしで入門を直訴し、正式に入門許可を得る。

ただし、李恆昌師傳より「これまで練習してきた詠春拳の経歴は一切認めない。日本の指導者が何を言ったか知らないが、これから教える詠春拳を一から学びなさい」との宣告を受け、いたく感動する。これより葉問からみて第3世代の練習生として以後、正式に詠春拳の修行を開始する事となる。

 日本に帰ってから、従来通り日本の某詠春拳団体での練習は惰性で続けながら、梁贊嫡系主流の本格的な黄淳樑派詠春拳の練習相手を新たに募集するため、2005年5月に香港カンフー武術學院を設立し、李恆昌師傳から教えて頂いた梁贊嫡系主流の本格的な黄淳樑派詠春拳の練習を継続していく事となる。

 2007年1月に日本の某詠春拳団体から詠春拳の練習生を募集しているのがけしからんと破門の処分を受けそうになる。もとより日本の某詠春拳団体には既に技術的に相容れないものがあったため、袂を分かつ好機と判断し、破門の処分を受ける直前に某詠春拳団体の全員の前で離脱を宣言した。以後は「香港カンフー武術學院」の活動に専念する事となった。

 以降、香港で梁贊嫡系主流の本格的な黄淳樑派詠春拳を短期留学と言う形で修行を続けながら、日本では後進の指導を行っている。2008年4月には香港カンフー武術學院・守口本部練習場が落成し、関西(大阪・兵庫・神戸・奈良・和歌山)において梁贊嫡系主流の本格的な黄淳樑派詠春拳の普及に尽力している。

2010年9月より「眞傳 詠春拳教本」と題して本邦初の詠春拳の真面目な指導書をインターネット書籍での刊行にて執筆を開始する。各方面で好評を得る。2015年2月17日、5年間に渡って執筆してきた「眞傳 詠春拳教本」を最終第捌號の上梓を持って一旦執筆活動にピリオドを打つ事とした。現在は六點半棍を黄淳樑門下一番の使い手である彭永權師伯に師事し練習に没頭している。

 職業は鍼灸師・柔道整復師、介護施設でリハビリ指導員として活躍中。気功法も出来、針灸気診研究会では幹事・基礎科講師として後進に東洋医学の指導も行っている。カンフー倶楽部に戻る
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